オフィスを出て見上げると、すでに西の空は、茜色から深い青へとその色を変えつつあった。
高層ビルの上に、墨を流したような黒い雲が浮かんでいる。
晩秋ともなれば、昼と夜の交代は駆け足で行われ、夕景を楽しむ暇もない。
地下鉄に向かう人波に流されながら、俺は今日もまた奇妙な感覚にとらわれていた。
─ 遠くへ… どこか遠くへ
特定の場所も、具体的なビジョンも無い。
ただ単純に、そして強く。
─ ここではないどこかへ
胸の奥から湧き上がる渇望とも呼べる感情。
旅愁とも違う、自分の居場所、本来自分が座るべき椅子をいつも探している気がする。
一体いつからだろう、押し寄せる衝動に抗えず、俺は刻々と色を変えゆく空をただ見上げていた。
聞き慣れた車内アナウンス、線路の継ぎ目を通る際の規則的な振動、窓の外はすっかり暗くなっていた。
少し眠っていたらしい。
次はもう自宅の最寄り駅だった。
昂っていた感情も、少し収まった様に思える。
改札を出ると吹き付ける北風が頬に冷たい。
街路樹の葉がカサカサと音を立てて揺れている。
足早に家路を急ぐ人達も、コートの襟を立て寒そうだ。
やがて街灯に照らされた、人気のない公園が見えてきた。
自宅アパートまで半分ほどを歩いたところで、ふと足を止める。
─ そうか、明日は休みか
日々の忙しさに追われ、翌日の休みさえ忘れていたのだ。
─ まったく…
唇に自嘲気味の笑みが浮かぶ。
─じゃあ、ちょっと寄っていくか
そうつぶやくとくるりと向きを変え、いま来た道を駅の方へ戻り始める。
そう、部屋には俺の帰りを待つ人などいない。
やや照明を落とした店内、焼鳥のタレが焦げる香ばしい匂い、食器と食器が触れ合う音、そして楽しげな話し声。
脳裏をよぎる光景に、少しだけ心がはずむ。
─ 誰か、来てるかな?
浮かんでくる見慣れたいくつかの顔に、自然と笑みがこぼれた。
胸の深い所にあるモヤモヤとした昏い塊、その一部がすうっと溶けて行くのを感じる。
─ なんだ、あるじゃないか
さっきまでの焦燥感は嘘のように消え、ゆっくりと、心が満たされて行く。
次第に近づいてくる、通いなれた店の古びた看板。
─ ちゃんとあるじゃないか、ここに
店長の威勢のいい声が、暖簾の外まで響いている。
続いて、聞き慣れた笑い声。
見上げれば、澄んだ夜空に上弦の月。
─ ああ、今夜は美味い酒が呑めそうだ…
特定名称
純米大吟醸
テイスト
ボディ:普通 甘辛:普通